仙谷由人官房長官の「自衛隊は暴力装置」という発言が物議をかもしている。
“言葉がすべった”のは18日の参院予算委員会。思わず出た言葉に、仙谷氏は一種とまどった表情を見せ、直後「実力組織」と言い直した。さすがに「まずい」と思ったのだろう。

政府を批判する言葉として、全共闘時代にはよく使用された言葉らしい。旧社会党出身者の仙谷氏には染み付いた言葉なのだろう。元々はマックス・ウェーバーの「職業としての政治」からの言葉。ということで、本棚でほこりを被っていたのを引っ張りだしてきて読み返してみた。

政治とは暴力である

ウェーバーからの引用語ということだが、「暴力装置」とは平和主義者にとって、自衛隊を批判するのに都合のいい言葉だ。そんなわけで武力を持っている自衛隊がやり玉にあがった。
「暴力装置」という言葉自体は、元々、政治そのものが原動力として暴力を内包しているという意味だろう。権力の担保として、どの国でも軍隊や警察が存在し、秩序が保たれる。
治安を維持するためには、常にそのような機関が必要で、さらに政治とは権力を追求するものでもある。
自らが権力にとらわれ悪魔と手を結んでしまったという自覚を持ちつつも、権力の乱用への誘惑に対して、「それにかかわらず!」と言い切れる人間こそが真の政治家であるとウェーバーは言いたいのだと私は理解した。

それをこのたびの件に置き換えて考えてみると、「ああ、仙谷由人という人は政治家になるべき人ではないのだな」と感じた。

仙谷由人の正体は国家破壊主義者

仙谷氏の政治人生は、全共闘時代から始まって反体制主義で塗り固められている。社会主義国家にあこがれ、国家は暴力であると心底染み付いているのだろう。
旧社会党から民主党へ移り、老かいな現実主義者に成長したとの評価もあるが、氏の根本的な考え方は「国家の破壊」である。
よく言えば理想家肌なのだろうが、それが災いして国家はいらないという思想が染み付いてしまっている。
それを如実にあらわしているのが、氏のHPにでかでかと掲載されている政治理念。「地球市民」を目指すと書いてある。仙谷氏にとって国家は無用のもの。できれはなくなってほしいらしい。
仙谷氏の性格から言って、自らが舵をとる前の国家は、自身の天才性を圧迫する邪魔なものでしかなかったのかもしれない。
では、仙谷氏の天才性を阻害するものとは何か。
それは民衆が自由に権利を行使して、互いの自由を侵害することで、逆に不自由になっている姿。
弁護士出身の仙谷氏は、そういう愚かな大衆の振る舞いを散々見てきた。個の自由を制限することで全体の自由を保証する社会。そう、社会主義こそ理想の国の姿だと、旧社会党での意欲的な活動の原動力になったに違いない。
だが、国家が個の自由を制限することは、まさに暴力装置としての政治であり、仙谷氏が最も忌み嫌う姿ではないのだろうか。自らの天才性を押しつぶす、暴力装置としての国家から脱却するために、社会党へ入党し活動するというのは、仙谷氏は頭が悪い人なんだと思う。
しかし、自覚のない仙谷氏にとっては、このようなみんなが自由な民主主義は敵でしかない。

このような仙谷氏は、ウェーバーの言葉を借りれば、「善からは善のみが生じるといまだに信じている者がいるとすれば、それこそ政治のイロハもわきまえない”政治的未熟児”である」と思う。

暴力装置を手に入れた反体制主義者

そんな国家破壊主義者の仙谷氏が、いまや押しも押されぬ官房長官様である。その勢いに首相であるはずの菅氏が霞んで見えない。
国家は暴力であると、青年時代から闘ってきたはずの人物が、今度は暴力そのものとなってしまった。
仙谷氏本人もその自覚がないように見受けられる。これはとても怖いことではないだろうか。
国家は暴力だから、なくさねばならないという政治家が、無自覚のまま暴力装置そのものとなり、自ら善を為していると思っている。まさにウェーバーの言う政治的未熟児であり、その人物は、手にした暴力を躊躇なく行使するだろう。
自ら暴力装置を手にしている自覚があるならば、「それにかかわらず!」と自制しつつも、使うべきところを知っているはずだ。ところが、仙谷氏が、先の領海侵犯の体当たり中国漁船の際にも見せた船長釈放、そして、逆に証拠ビデオ流出の海保職員への逮捕をにおわす発言などを見ても、その暴力装置の向かうべき方向が真逆であるとしか思えない。使うべきところに使わず、使わざるべきところに使用している。

野党時代、国家を攻撃していた人物は、暴力装置を手にいれた途端、その矛先を日本国民に向け始めた。まさにウェーバーの警告した政治的未熟児が日本の舵をとっている。
私はこのような人物が、政府の官房長官だということに恐怖を感じているが、皆様はいかがだろうか?