Max_Weber_1917

少し前、仙谷由人官房長官が自衛隊を「暴力装置」扱いにして物議をかもした。
そう、世の中で力を持ったものは、すべて暴力装置に成り得る。成り得ないと思い込んでいるとしたら、それこそ暴力装置なのである。だから、一定の牽制は必要だ。だからマックス・ウェーバーも、自らの講演で「政治は暴力装置」だと語ったのだろう。

政治はもちろん、マスコミ、教育、官僚、軍事、企業など、個人を圧迫する材料は様々にある。
この度の海老蔵事件を見ても、「人間国宝候補」が暴力装置になっていたりもする。

このブログでは、日本ではマイノリティな宗教政党に対して、世論やマスコミが色眼鏡で見ているようなので、それを擁護する発言を繰り返している。宗教政党、宗教だから悪という構図はなんとしても払拭したい。
しかし、宗教もまた暴力装置といえる。もし、そこに精神的格闘がなく、無思考で罪悪感なく前進する場合、その可能性がないわけではないのだ。

絶対善との格闘

宗教は絶対善の世界である。相対的な善では成り立たない。神が「どっちかというとこっち」という世界ではない。ただし、時と場所、人などの環境によって、同じ事象でも正反対の答えがでる時もある。その中で現在ただ今の絶対の善を模索するのが宗教者の姿であると思う。
妥協か思い込みのみで「私たちが絶対正しいのだから」というのは、周りにも当然危険だが、自らにも危険だと言える。それは盲信になるからだ。盲信は慢心から生まれているのだろう。

神は善をお分かりになっているだろうが、人間はそうはいかない。
常に選択にさらされ、その選択が正解かどうかの剣ヶ峰をつきつけられている。だから間違いもある。
間違いの場合は、それが因となって結果が顕れる。それに対しての報いもある。仏教で言うと因縁果報。それは、それに基づいて反省すればいい。
しかし、自らが絶対の善だと凝り固まってしまっては、悪報は悪報のままだ。精神的格闘もなく、暴力装置という自覚もなく、突き進んでいくだろう。
ルターも悩んだと思う。そもそも信仰深い人物である。その人が、こともあろうに教会に対して異を唱えた。
「自分は間違っているかもしれない」
常にそのような恐怖に襲われていたと思う。
自らがキリスト教を壊してしまうかもしれない。
誰よりも信仰深いルターが、その立場で選択を迫られたのだ。

「それにもかかわらず!」

自らの行為が暴力に成り得ることを自覚しつつ、自らの選択が正しいものと何度も確認し戦うことを決意し、天の声に従った。貴族趣味の免罪符で大衆を餌付ける教会に対してプロテストしたのだ。

格闘があるからこそ

時代、場所、そして人の心の数だけ選択はある。その中で限りなく細い糸をより分けていくこと。
自ら暴力装置に成り得ると自覚したものだけが、その暴走を食い止めることができる。
それでもそれが善だと心の底から湧いてくるならば、「それにもかかわらず!」とプロテストしていくことが、信仰者の仕事だ。

仙谷氏は、野にあった時は、暴力装置に対して戦いを挑んだが、自らが暴力装置に成り得るということを知らないようだ。仙谷氏が善から善のみしか生まれないと勘違いしているようならば、すぐに悪魔は顔を出す。