中道とは険しい道

中道という言葉がある。

仏教用語だが、政治的立場にも使う。

以前、仏教学者であるひろさちや氏が、「中道とはいいかげんなこと」と説明したが、とんでもない。

ひろさちや氏は、中道ということを言葉じりのみを受けて、ほどほどという認識にしか取れず、結論的に「いいかげん」なことと導きだしたようだ。

ほどほどのいいいげんな立場を、釈迦が弟子たちに厳しい道として修行させたと思うのか。そんなのは怠け者の詭弁で、精神的格闘はない。

釈迦が説いた中道という精神を会得するのに、数々の名だたる僧侶たちが、厳しい修行をしてきたのだ。そんな簡単な、安易な道であるはずがなかろう。

現代の進歩的だと称する人々は、このような安易な考えで、歴史を簡単に軽んずる。

 

本来、中道とは、「極端を廃する」という精神的立場を意味する。

人はさまざまな情報や、立場の中で、自らの立場を決める。さまざまな分野、いろんな主張があるので、どれが正しいのか見極めるのは困難だろう。その中で、一つひとつ丁寧に極端を廃していき、剣が峰のような中道の立場を選択して進んでいくことを、本来「中道」というのだ。

ゆえに、中道とは「正しき道」という意味である。

政治的立場もそうだろう。

多くの大衆の意見が形成され政党ができあがり、その主張は千差万別である。

その中で、各自、極端を見極め、排除していかなければならない。やはりその立場は剣が峰。賢明な判断が必要だ。

仏道修行ではないが、それなりの努力が必要で、ある日突然よい政治が空から降ってくるものではない。この国は民主主義だからだ。

その民主主義の主役である大衆が、知的立場を峻別する作業を怠けていては、空から降ってくるのは衆愚政治である。

江戸時代にも、何度も大衆が衆愚化して、体制が危機に陥ったことが多々あった。飢饉などの時がそうだ。そんな時に活躍したのがお寺などの機能である。

僧侶は、大衆を知的に訓練した。それは反体制でもなく、体制側からの洗脳でもない。教養を深めることで、今、個人と全体にとって、どういった立場が正しいのか、その中道を見極めよと指導した。ある一定の偏った知識ではなく、教養を身につけた衆生が、時の崩壊を防いだ。その延長線上に現代の平和がある。

例を出した江戸時代にも、そうした教師への尊崇の念があった。だから、道が拓けたのだ。今はどうだろう。江戸時代以下ではないか。

民主主義を担保するものは、軽薄なマスコミ型知識ではなく、大衆の教養である。

形而下のみの事象をもって民主主義はなりたたない。形而上の精神があってはじめて民主主義は議論すべきではないのか。

形而上を無視してしまったから、ばら撒きしかでてこない。プラトンが危惧した衆愚だ。

この国に保守と言われるものは、もう残り少ない。

この新しい選択は、その峻別の選挙だと私は思う。