友愛あれこれ

民主党鳩山党首の信条は「友愛」である。

鳩山氏の定義する「友愛」とは、経済においては、市場原理主義を抜け出し、自立と共生の経済体制に転換することだとし、外交においては、東アジアの共栄圏というEU的な共同体を意味するようだ。

この「友愛」とは鳩山一郎氏から始まり、鳩山家の家訓とされている。

鳩山一郎氏が公職追放中に、軽井沢で療養中にリヒァルトの「全体主義対人間」の邦訳をしたところから始まったとされる。

この書物の中にある「民主主義は、自分の自由と人格の尊厳を尊重すると同時に、他人の自由と人格の尊厳をも尊重しなくては成立しない。世界の歴史上、平等のための革命と自由のための革命はあったが、友愛のための革命はなかった。しかし、民主政治完成のためには、どうしても、友愛革命が必要である」という言葉に感銘を受け一郎氏は、その普及を決意したという。

このリヒァルトは、パン・ヨーロッパというEUの母体になった思想の持ち主である。それが東アジア共栄圏的な鳩山氏の思想につながっているのだろう。

もともと日本にもこの「友愛」という思想はある。京都学派の田邊元氏の「懺悔道」である。

田邊氏は、フランス革命が唱えた自由と平等は両立しないことを看破していた。自由は突き詰めれば格差を生み、平等は切りそろえるがために個人の意思は尊重されない。この相容れない両者を架橋するものとして「友愛」を唱えた。

そもそも2500年前から仏教の中にもこれはある。小乗と大乗である。小乗仏教は仏を目指して限りなく悟りを高めていく。これでは衆生との認識があまりにも格差がでるので、大乗という救済をメインにした派が登場する。ただし、この大乗もすべての人が仏になれると修行を放棄してしまった。この極端を廃したものが釈尊の「中道」である。小乗は智慧を求めた。大乗は慈悲を求めたと置き換えることもできる。

キリストも愛を説いた。孔子も仁を説いた。そもそも友愛とは、このように本来宗教が言う言葉である。政治理念として根底を支えるのはいいが、鳩山党首の友愛には何か違和感を感じる。この美しい言葉を政治的手法として扱っているからだ。

 

 

正義のない友愛は盲愛

先ほどの投稿でも書いたが、祖父である鳩山一郎元首相は、当然この友愛の思想の源流ではあるが、「日本が有事の際、敵地先制攻撃」をすると踏まえたうえでの友愛なのである。

これは重要である。宗教的深みは釈尊やキリストには及びもしないだろうが、一郎氏の「友愛」には、「正義」という観点があったのだ。

宗教家も政治家も、ともに物事の正邪を見分けなければならない。宗教家は神仏から見た正邪。政治家は自国の国益から見た正邪だろう。

この「正義」という観点がなければ、「友愛」はただの「盲愛」だ。

民主党鳩山党首の言う「友愛」は、「経済においては、市場原理主義を抜け出し、自立と共生の経済体制に転換すること」。これは翻訳すると、米国から脱却してアジア経済圏へ入るということ。もう一点、「外交においては、東アジアの共栄圏というEU的な共同体を目指す」これは、中国と、より親密になるということだろう。

ようするに「親中疎米」ということだ。

それもいいのかもしれない。ただし米軍を疎にするならば、憲法九条を改正し自衛隊を軍隊としなければ、自立と共生などありえない。そうでなければ、東アジアの共栄権をつくるのではなく、属国として中国の傘下に入るということである。できあがるのは中華帝国。その正邪を見極める力が鳩山党首にはない。自国の国益を推し量る正邪はなく、盲愛なのである。

なぜ、こんな盲愛政権ができあがるのか。それは、権利を求めることのみで、義務を果たそうとしていないからだ。平和を望むのはいいが、それには義務が必要だろう。それなりの軍事的力がいる。すなわち、米国を追い出すなら、自国の軍隊が必要だということだ。

そんな権利ばかり主張する立場から国民に税金をばら撒いても、日本人の自立心はますます無くなるのではないか。「もっとくれ、足りない」と権利ばかりを主張する国になってしまう。

 

 

鳩山党首の友愛は片方だけ

このように、自由と平等。自立と共生。小乗と大乗。義務と権利。それぞれ向かう方向が違うものだが、架橋をしなければ、中道、すなわち正しき道とはいえない。

鳩山氏は、その架橋として「友愛」を唱えるが、平等、共生、権利など、実は、片方のみを唱えているのがおわかりだろう。だがもし、平等、共生、権利を実現するために、増税に従うのは国民の義務だといい始めたら要注意だ。自らの説の破綻を補うために、国民に義務を強要してはならない。

それは政治的詭弁であり、「友愛」の思想からはほど遠い。

 

政治家の義務とは、増税ではなく減税であろう。無責任な平和主義ではなく、自立した安全保障だ。そして向かうべき道を指し示すことである。それにいかに腐心するかである。